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日本におけるヒップホップダンスシーンの歴史

日本におけるヒップホップダンスシーンの歴史

日本におけるヒップホップは常にダンスがその中心であった。
これは、ダンスがビジュアルインパクトを持った文化であり、言葉の壁というのもが存在せず、言葉の壁プラス文化的壁の厚かったラップなどと比べれば理解されやすかったのがその理由ではないだろうか。

ヒップホップカルチャーが日本に紹介される以前にも黒人の熱狂的ダンスの支持層は常に日本に存在した。
1970年代に人気を博したアメリカの「ソウルトレイン」は日本でも放送され、ソウルダンスに熱中する人も多かった。その中でも大阪のテディー団は、世界ディスコダンスコンテストで3位になり、話題となった。これらのソウルダンスは、日本のダンス文化の基本となったといえるかもしれない。
実際に、現代でも活躍中のヒップホップダンサーの中にもこのソウルダンス出身者のものも少なくない。

日本にヒップホップを大衆に始めて紹介したのは、1983年の映画「フラッシュダンス」であった。この映画はヒップホップ映画ではなかったが、その一部に路上でブレイキングやポッピングをする子供達のシーンがあり、その数秒のシーンに衝撃を覚えブレイクダンスを始める人は多数でした。ちなみにこの映画のラストシーンで主人公のジェルニファールービスが、オーディションテでバックスピンをする所がある。これは実はクレイジーレッグスが女装して、レオタードを着てやっているというのは有名な話である。この映画以後、ワイルドスタイル、ビートストリート、ブレイクダンス1、ブレイクダンス2、等がたて続けに公開され、多くのダンサーが影響を受けた。

また83年にはニューヨークのトップブレイキングクルーのロックステディークルーが来日、「ブレイクダンス」で有名になったターボことブーガルシュリンプも歯磨き粉のアクアフレッシュのコマーシャル出演とそのプロモーションで来日、日本にヒップホップカルチャーの種をまいた。これらのダンサー以前にも、当時アメリカで活躍していたダンサーが日本に呼ばれ、当時のダンスシーンに多大な影響を与えた。中でも「ブレイクダンス」に出演していたポッピンピートやスキーターラビット、現在はラップグループでもとポッパーであったブーヤトライブなどは頻繁に来日していた。当時の各都市で活躍していたクルーは福岡ではヨシボウ率いるビーバップクルー、博多ではインペリアル、大阪ではチェリー率いるO.G.S、マシーンらのエンジェルダストブレイカーズ東京ではファンキージャムなどであった。

1989年頃、日本にはニュースクールの新しい波が、ニュージャックスイングの流行とともにやってきた。
ボビーブラウン、BBD、ガイといったアーティストのR&Bとヒップホップの融合のような音楽が流行しそのビデオで出てくるブレイクダンスとは違った新しいステップ系の踊りが日本の若者のハートをつかんだ。後にZooを生み出したTV番組「DA DA LMD」(TV朝日)現在trfのダンサーを務めるサムやチハルがレギュラーダンサーとして出演していた「ダンスダンスダンス」(フジTV)などが始まり、そのムーブメントは流行に敏感な若者の間に広がった。

しかし日本における「ブレイクダンス」に次ぐ第二次ダンスブームに最も貢献したのはなんと言っても「たけしの元気が出るテレビ」のダンス甲子園のコーナーであった。
他の2番組が深夜番組であり、全国ネットでなかったのに対し、このダンス甲子園は全国ネットで日曜日の8時という時間帯、そしてもともと「たけしの元気がでるテレビ」が人気番組であったことから、高校生を中心にダンスが爆発的なブームとなった。番組自体のヒップホップカルチャーに対する理解はまったくといってないものであったが、現在トップレベルダンサーで活躍しているものの中で、この番組に出演したり、番組をきっかけにダンスを始めたものは多い。

このブームは1年半ほどで終わり、ダンスを止めるものも数多くいたが、と同時にこの文化に心底惚れその世界にとどまる者も多数いた。
ブレイクダンス時代からのダンサーと一緒に、こういった人たちが日本のストリートダンスを単なる流行のものから根をしっかりおろした文化として形成していった。

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